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修道院の建築活動

修道院の建設は中期ビザンティン建築の主たる特徴である。カルケドン公会議に司教の監督下に措かれた各修道院は、聖像破壊運動の迫害を忌避してその管理下から逃れ、10世紀頃までにはかなりの独自性を持つようになっていた[25]。

スラブ人やブルガリア帝国から奪還されたバルカン半島では、961年に聖アナスタシウスがラヴラ修道院を建設した後、ギリシャ正教最高の聖地となったアトス山の修道院や、フォキスにあるオシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院など、多くの修道院が建設されている。修道院は様々な建築の複合体であり、中央教会堂(カトリコン)を残してその他の施設が消滅している場合もあるが、今日に至るまで残存しているものも多い。また、都市人口の減少による空地の拡大にともなって、都市に開設される修道院も認められるようになる。このような修道院は一部の裕福層からの寄進によって建設されたものも少なくなく、寄進者らに施設そのものを不動産して譲渡、売却することも行われた。

コンスタンティノポリスでは、貴族出身のコンスタンティノス・リプスによって建てられた修道院[26]北教会堂が挙げられる。907年に創建された教会堂はそれほど大きなものではないが、献堂式に皇帝も列席するほど壮麗な建築で、大量の彫刻装飾と大理石の象眼、釉薬タイルによって装飾されていた。コンスタンティノポリスのその他の修道院としては、ロマノス・レカペノス提督(皇帝ロマノス1世)のミュレレオン修道院中央聖堂[27]、イサキオス・コムネノスによるコーラ修道院中央聖堂[28]などが挙げられる。地方都市では、テッサロニキのパナギア・ハルケオン聖堂、スクリプーのコイメシス聖堂などで、貴族の寄進による修道院建設を見ることができる。
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貴族の寄進に頼るこれら中期ビザンティンの教会堂建築に大規模なもの存在しないが、その代わりに外部空間はかなり意識されるようになったようである。内部空間の重要性に変わりはなかったが、中央聖堂は修道院中庭に孤立して建設されたため、外部を装飾する意識が生まれたようである。オシオス・ルカス修道院の生神女聖堂では、外壁の煉瓦積みがクロワゾネと呼ばれる技法によって構成され、クーファ文字をモティーフとした浮き彫りによって装飾されており、同様のモティーフはテッサロニキのパナギア・ハルケオン聖堂など、バルカン半島でよく見られる。また、アクダマル島のスルブ・ハツ聖堂は外部を美しい浮き彫りで覆っている。

末期ビザンティン建築
12世紀末期になると、東ローマ帝国は政治的には小公国のゆるやかな連合体となり、これは1204年のコンスタンティノポリス陥落以後、より一層加速された。ニカイア帝国によって首都は奪還されるものの、軍事力・経済力などの面で、帝国は往年の繁栄からは程遠いまでに衰退しており、同時代の壮麗なイスラム教礼拝堂やカトリック教会堂を凌駕するような建築は建てられなかった。

亡命政権が各地に樹立されることによって、ビザンティン建築は必然的に多様化することになるが、特に、ロマネスクやゴシックの影響を受けた建築が認められる。ラテン帝国の建築活動は著しく低かったので、これらは金角湾に居留したヴェネツィアやピサ、ガラタ地区のジェノヴァの人々による建築の影響を受けた可能性が指摘される。

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2009年04月22日 07:38に投稿されたエントリーのページです。

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